超私的読書案内 『ひとり空間の都市論/南後由和』
ハロー、みなさま、こんにちは。月刊マツウラです。
なんやら色々あって更新できず。環境が変わったり、旅行に行ったり、断捨離したりでバタバタだったのです。
断捨離も実際にモノを捨てたり、サブスクの解約したり、PCのファイルを整理したりでだいぶすっきり。そんな中、昔読んだ本についての感想文を見つけた。
3年くらい前に、評論家・PLANETS編集長の宇野常寛さんが主催のPLANETS Schoolを受講してたときに書いた文章。せっかくなので、こちらに残しておこうと思う。
にしてもこれ書いてたときから、だいぶ感情の変化あるなー。もう少ししたら、今の感情残しておきたいところである。月日は確実にながれているわよね。
—以下長文なり(トーンかっちり目)
南後由和氏の『ひとり空間の都市論』 (ちくま新書)を読んだ。この本は、「状態としてのひとり」に着目して議論が展開されており、「ひとり空間」に焦点をあて、その特性や都市との関係を探ったものだ。
私はここ数年、人口3万人弱「鉄と魚とラグビーのまち」といわれている岩手県釜石市で暮らしている。釜石市に引っ越す前は、東京で暮らしていた。都市で暮らしていた頃は、この本にでてくるような「ひとり」を思う存分、楽しんだ。ひとりで外食し、ひとり用の食材を買い、ワンルームマンションでひとりで食べる、「ひとり」であることに何も違和感を覚えず生活した。釜石での生活は慣れてきたが、時折物足りなく感じるのは、「ひとり」になる瞬間が少なく、心地よくいられる空間が、都市に比べて圧倒的に限られていることだ。
例えば、ひとりで家の近所のスーパーに買い物に行くと、いつものレジのおばちゃんに話しかけられて、ひとしきりおしゃべりをする。ひとりで酒でも飲もうと思って居酒屋に入っても、複数人で入るのが当たり前という感じで、若干の敷居の高さを感じる(なので、まったくといっていいほど、足を運ばなくなった)。
親切にいつも気にかけてくれる温かさがあるけれど、噂が噂をよび、影口や悪口が本人の耳にまで届いてしまう煩わしさもある。都心にいた頃は、当たり前だった「ひとり空間」が、今となっては、とても遠いところにあるように感じ、たまに寂しく思う。
著者は「あとがき」で、こう述べている。
「2011年の東日本大震災以降、”みんな””つながり””コミュニティ”の重要性を説く議論が溢れるようになった。また”都市”よりも”地方”、”ひとり”よりも”コミュニティ”が人々の関心を集めるようになった。これらの議論には傾聴すべき点もあるが、本書では”みんな””つながり””コミュニティ”といった言葉を安易に口にする一歩手前で、都市と”ひとり”の分かちがたい関係について考えなおしてみたいと思った。」
ひとり空間の都市論
被災した人の中には、一部の現地に住む人が言う「ソト」の人とのつながりはできたけど、「ウチ」の人とのつながりが軽薄になってしまったと感じている人がいるらしい。そんな話を興味深く聞いた記憶がある。「ソト」の人間とは、復興の文脈で関係性を持つようになったが、「ウチ」の人間とは、当事者同士故、恨みや妬みなどの感情が生まれてしまうことがあったがあったそうだ。その話を聞いてから、「つながり」といった言葉をあまり安易に口にしないようにしている。
近年は「コミュニティ」が強固なものになっている印象が強い。SNSをはじめ、オンラインサロンは台頭しているし、人の興味や人間関係そのものをデザインして関係を構築したり物語を作るSNSマーケターやコミュニティマネージャーといった仕事まで登場している。最近リリースされたclubhouseという音声型SNSは、24時間、見知らぬ誰かと誰かがひたすら話し続けている。いつも誰かとつながっている状態を求めているのである。
一方で、接続し続ける状態に疲れている人もいる。他者との関係、他者との距離をどのように取るか。ゆるやかな仕切りのグラデーションをいかに担保できるか。SNSでは、自分がミュートさえすれば、「つながり」をシャットダウンすることができる。
「ひとりでいること」において、最も重要なことは、いつでも自分の意思で「選択できる」ということではないか。第4章では、モバイル・メディアとひとり空間が都市の「ひとり空間」に変化を与えたと指摘しているが、モバイル・メディアの果たした役割としては、地方の「ひとり空間」への貢献度のほうが高いと感じる。オンラインで遠くにいる人とも気軽につながることができるし、時間を区切って誰かと効率的に話すこともできる。「つながる」選択肢が少ない地方には、とても嬉しいポイントだ。
都心は、人との濃度が薄く「自由」を感じるが「孤独」な部分もある。「ひとり」になれる空間は都市の至る所に存在することは理解しつつも、良いも悪いもどちらももつ地方の「コミュニティ」にもひかれてしまう。結局どちらの欲望も欲しい自分の欲張り加減に苦笑しつつ、選択肢がある状態を保っておくことにしよう。